ずっと気になっていた『JK、インドで常識ぶっ壊される』を病床で読むことができた。
私がインドに行ったのは今から四半世紀前のことだが、重々しくのしかかる混沌とした筆者の描写が私の感性と合致して、タイムトラベルをしたような気持ちになった。
筆者がJKとして感じた若者の使命とは、可能性の燃焼であろう。
キラキラと目を輝かせるスラムの子どもたちには夢がある。
夢を叶える可能性は低いが、命運を賭けられることこそ自由の証なのだ。
私は教育者として、ほんの一部の悪意ある生徒が学級を壊すのを見過ごすわけにいかない。
彼らの心の叫びなのだろうけれども、一生懸命頑張ってる生徒の邪魔だけは許せない。
『JK、インドで常識ぶっ壊される』で筆者はポストコロナの日本で起こるであろう教育格差を上流から見てきたのだろう。
ガンガーの沐浴に例えると、私たち公立学校はニューデリー近くの動物や人?の死体が浮かんでいる下流付近にいる。
口に含むと一発で下痢になる泥水の中で身を清めるのだ。
こんなところでは清められるはずがない。
富裕層は沐浴を避け、コンピュータという科学に改宗する。
私の夢は、このような混沌とした地に派遣されてもたくましく生きる力のある若者を育てることである。
教育を受ける権利を否定する軽薄で稚拙な輩を許せる度量は、今の私には備わっていない。
でもなんだか世界の教員たちとイギリスかどこかのポスト・グラデュエートでともに学んでいきたいと思った。
また見聞を広めるために、教師として海外青年協力隊で働くのも悪くないと思った。
私に残された時間を有効に使っていきたい。